歳時祈 2026年02月01日 主日

触れる信仰

不治の病という言葉があります。私たちにとって病はいつも想定外の出来事ですが、治らない病気というものは否が応でも自分自身と向き合わせるものです。

先日、以前いた教会の方の訃報を受けました。その方は 26 年前、余命一年という診断を受けて来会し、以来自分の命と向き合い、信仰決心をされました。ところが酸素ボンベを引きながら教会に通う中体調は改善し日常生活や仕事に復帰できるほどになりました。しかし、完全に治ったわけではなく、他の重い病気を併発し体が不自由になり最後は介護付きの施設に入り、近くの教会に転入し楽しく余生を送っておられました。

転入の信仰告白では、「病気になるたびに、自分の罪について考えるようになりました。そして主イエスが共にいてくださり、罪の贖いをしてくださったことに感謝する喜びを知るようになりました。私は悲観主義者、調子者、いいかげんなどと言われる性格でもあり、また神経障害による味覚異常の症状で食事を相伴できないという困難もあります。でも人と食卓を囲むことは大好きです..」と証しし新年礼拝で主の晩餐を受けた数日後急変し旅立っていかれました。

聖書に、12 年の間出血が止まらず苦しんでいた女性とイエスさまの出会いが記されています。その苦しみは肉体的な苦しみに留まらず、宗教的、社会的な偏見や差別による想像を絶する痛み苦しみでした。しかしその女性は一縷の望みをかけて、ひん死の状況にある少女を救うために急ぐイエスさまの衣の裾に触れたのです。すると彼女は癒しを体に感じました。そのことに気付いたイエスさまは急ぐ足を留め、触れた人を探されます。なぜならイエスさまの力を奪うほどの信仰をイエスさまが感じられたからです。自分の身に起こったことを知り恐れた女性にイエスさまは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず元気に暮らしなさい」と語られました。イエスさまに触れる信仰は、新たな希望に生きる恵みの信仰と言えます。(小田)

歳時祈 2026年01月11日 主日

友の信仰

因果応報という言葉があります。人類が月や火星に行く時代ともなれば、そんな言葉はもう死語かと思いがちですが、私たちの心の奥底には行為の結果として現在の幸不幸、現世の行為の結果が来世の幸不幸を決めると思うところがあるのではないでしょうか。縁起担ぎや厄年を気にする人も後を絶ちません。それほど私たちは自分を守るために未知なるものに恐れを感じるものです。新しい年、私たちは何を畏れ、何を信じていくべきでしょうか。

マルコによる福音書では、イエスさまの伝道の働きは数々の癒しの奇跡から始まります。 そこにはマルコのキリスト理解が色濃く反映されていると考えられます。汚れた霊や多くの病気を癒し、ユダヤ教では特に忌み嫌われていた伝染性の重い皮膚病の人の癒しが行われました。旧約聖書では皮膚病は汚れであり罪と結び付けられ清めの規程は厳しく定められていました(レビ記13~14章)。なぜなら民族の存続に関わることだったからです。

その影響からユダヤ教では重い病気や障がいを持つ人が律法の拡大解釈によって罪人と定められるようになりました。そのような中、一人の中風の人が寝床に寝かせられたまま四人の友達によってイエスさまのもとへ連れられてきました。汚れた罪人と見なされていた人を友人たちは厭うこともなく憐れに思って必死に連れてきたのです。そうでなければ、大勢の人でごったがえす家の屋根をはがしてつり降ろすことなどできるはずはないのです。

イエスさまは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。その言葉に律法学者たちは躓き、イエスさまを心の中で裁きました。それを見抜いたイエスさまは、「「罪は赦される』と言うのと「起きて、床を担いで歩け」と言うのとどちらが易しいかと問われました。そして、彼らの答えを聞く間もなく中風の人に「起きて、家に帰りなさい。」と命じ、中風の人は癒されその場をあとにしたのです。そこには、因習の中で暮らしていた人々を赦すことも癒すこともできるイエスがおられました。私たちもこの世にあって、中風の友人たちのような信仰をもって歩む者でありたいものです。(小田)

歳時祈 2026年01月04日 主日

福音の初め

「あけましておめでとうございます」といういつもの挨拶で新しい年が始りました。昔から日本では一年のうちで大切な日として「盆と正月」が上げられます。それは、家族皆が集い幸いと恵みを分かち合う日で、アメリカでは感謝祭やクリスマスがそれにあたるといえます。特に日本ではお正月は大切な日で、年末にはその年にあった悪いことを忘れ、百八つの煩悩を消すという除夜の鐘の音を聴きながら神社仏閣に詣で清められて新しい年を始めるのです。今でも懐かしく思い出される行事ですが、子どもの頃から「人に迷惑をかけてはいけない。悪いことはしてはいけない。」と育てられた私は、大晦日から新年にかけての行事を守ることによって一年の間「自分がしでかした悪いことが許される」とは思えませんでした。なぜなら、自分の失敗やしでかしたことを忘れることはできなかったからです。

時は巡り、大人になってから宣教師と出会いイエス・キリストの福音に触れた時、人に迷惑をかけずに生きられる人、悪いことをしないで生きられる人など一人もいないことを知りました。そして、イエスさまが私の罪のために十字架に死に、私の罪は赦されたことを信じました。それこそ私にとっての今を生きるためのリアルな福音でした。今年、新しい年に私の心に去来する思いは、神の底なしの愛が私を守り導き支えてくださるということです。その神の愛が、赦されている者としての私を神のみ旨に敵った生き方に向かわせるのです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、イエスさまは福音宣教の業を始められました。その善き知らせは神の約束が成就(実現)したことのしるしです。 元々回心を意味した「悔い改め」は、救われてもなお罪を犯す私たちの自力による信仰の限界と、救いが神の国の到来を待たねばならなかったことを表します。私たちにできることは変わることのない愛と慈しみに満ちた神の赦しの中に誠実に生きることです。罪の裁きや刑罰によってではなく、神の愛と恵みによって世界が変わっていく。その福音が宣べ伝えられ神の愛と恵みによる世界の平和や幸いが実現していく一年となるよう祈ります。(小田)